仙台育英選手の1塁主足蹴り問題に関して
今年も熱い甲子園が花咲徳栄高校の優勝で幕を閉じました。
様々なドラマが生まれ、手に汗を握る試合がたくさんありました。
中でも今回の甲子園にて最も注目を集めた選手の一人に仙台育英の背番号2番の渡部夏史選手がいました。
ネット上ではかなり賛否両論があったようです。
takebat.comにもたくさんの問合せがありました。
まるで昔の星稜高校時代に松井選手を5打席連続敬遠した投手に似た言われ方をしています。
知らない方は少ないかもしれませんが、渡部選手が1塁に走りこむ際に1塁主の足と交錯してしまったことが意図的であったのかどうかという問題です。
この問題は捉え方によって人それぞれ意見が変わってきているようです。
この問題を考える時に賛否両論が出てしまっている理由は2つの考え方でとらえていけばいいのではないでしょうか。
それは、
・勝負としての野球
・スポーツとしての野球
という2パターンです。
「勝負としての野球」というのは、人生や生死をかけて闘うと言い換えてもいいかもしれません。
生死をかけ、もし本当に負けたら死んでしまう状況下での勝負なら、彼が行なったことは、人間心理上は仕方がない部分があります。
負ければ死んでしまうため、卑怯な方法をとる人の絶対数がどうしても上がります。
反対に「スポーツとしての野球」という捉え方で考えれば、あの行為は「卑怯」と捉えられてしまいます。
「故意」であるか「故意」でないかということよりも、彼自身の何らかの恐怖心が足を蹴ってしまう行為に至らせたので、彼自身の弱さであることは否めません。
やはり野球選手として練習を積んできたわけなので、走行ラインとして通常の精神状態ではありえない行為です。
しかし、takebat.comでは起きてしまった出来後に対して賛否をつけても仕方がないと考えています。
なぜなら、相手チームの立場を擁護する意見が多くなっていますが、最もひきずってしまうのは行為を行ってしまった本人です。
事あるごとに彼は当時の映像を一生思い出すことになります。
そして、常に自問自答を繰り返すことになるでしょう。
仮に故意に行っていれば本人が一生ひきずり続け、数十年先には大きな後悔を生むことになるでしょう。
故意でないのであれば、必ず立ち直って前を向いて歩きだせる瞬間まで悩み続けることになります。
既に答えは彼の中にあり、マスコミを始め外野がとやかくいうべきではないのではないでしょうか。