指導者の責任の取り方は辞めることではない

指導者は絶対的に正しい存在ではない

指導者には選手たちの人生を背負うほどの大きな責任がのしかかっています。

そこには「ただ野球が好きだから関わっていたい」という願望だけでは人に教えることは許されません。

これは野球だけに言えることではなく、全てのスポーツにおいても、社会においても、親子関係においても同様に言えることです。

それだけ本来は選手を預かり選手を教育することは簡単なことではありません。

しかし、野球の現場を見ていると、どうやら違った実情があるようです。

指導者の大半は

自チームの選手に対して自分たちの考え方を押し付ける

という傾向があるように感じます。

指導者の大半は野球のことが好きで、できるだけ長く野球に関わりたいと願い、自分たちの貴重な休日や時間を費やして指導の時間にあてています。

しかし、それだけでは指導者として不十分であることを理解しなければなりません。

むしろ不適切な指導をすればそれは有難迷惑です。

それだけ指導者という立場でいることの責任は重大だということを理解しなければなりません。

一つ間違えば選手の人生を棒に振り・・・チームを優先することで一人当たりの選手の人生を棒に振る立場です。

そしてそれらを選手の才能の責任にしてはいけない立場です。

全ての選手の人生を請け負う・・・ぐらいの立場にいるのが指導者だと自覚していなければ指導者とは言えません。

それにも関わらず、現場では逆のことが発生してしまっているようです。

野球界は昔から縦社会の傾向が強いため、監督やコーチといった指導者の言うことは絶対です。

その「絶対」から外れれば落伍者の烙印を押され、言うことを聞いても結果がでなければ選手の努力不足と判断されます。

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